英仏連合軍の進撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:27 UTC 版)
「広州の戦い (1857年)」の記事における「英仏連合軍の進撃」の解説
アロー号事件の後、イギリスの上院で清国への出兵が議論された。議会では、263対247で政府の行動を非難する議案が通過した。しかし、当時のイギリス首相パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは一気に議会を解散し、総選挙に踏み切った。選挙の結果、首相が所属する自由党が大勝し、出兵法案が議会で可決された:170。 1857年3月20日、イギリス政府は全権大使にエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースを任命した:170。 1857年11月、イギリスではインド大反乱をうまく制圧し、清国へ出兵できるだけの兵力が整った。連合軍はイギリス艦が43隻と約1万人の兵、フランス艦が10隻を派遣した。12月12日、葉名琛は連合軍に最後通牒をつきつけられた:172-175。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}* 広州市内への進入の許可。アロー号事件と西林教案の損害賠償。 清国政府からの新しい全権代表を派遣し、条約の修正へ向けた議論を開始すること。 十日以内に最初の二つを承諾しなければ、即時広州へ侵攻する。 しかし、葉名琛は英夷(イギリス人の蔑称)が和平を願っていたと思っていたため、清朝の咸豊帝に次のように誇らしげに報告した。 英夷現已求和,計日準可通商...乘此罪惡盈貫之際,适遇技窮力竭之余...一律斬斷葛藤,以為一勞永逸之舉。 日本語訳 - 英夷はすでに和平を哀願した。これからは通商していいでしょう。 その報告を咸豊帝も信じこんでしまい、次のように述べた。 葉名琛既窺破底蘊,該夷伎倆已窮,俟續有照會,大局既可粗定。務將進城、賠貨及更換條約各節,斬斷葛藤,以為一勞永逸之舉。 日本語訳 - 葉名琛はすでに相手の内部情報を見抜いていて、かの野蛮人は技量が不足している。文章のやり取りがある限り、大勢をおそらく見極めることができるでしょう。ぜひ広州市内への立ち入りを許可し、賠償と条約を更新し、一度にすべての障害を取り除いてしまいましょう。 12月28日早朝に、英仏連合軍による進攻が開始された。連合軍は艦艇20隻から広州河岸に上陸し、広州市内に急速に広がっていった。広州官署も砲撃され、署内の清軍の軍隊はすべて逃げたが、葉名琛は署内の椅子にかけて、書類を読んでいた:176。
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