若き大夫として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:15 UTC 版)
大永3年(1523年)、15歳で父・元広に死別し、七世大夫に就任する。 この時期、「脇之仕手」として座の有力者だったのは、父の従兄弟にあたる観世弥次郎長俊である。長俊はその父・小次郎信光ともに室町中期を代表する能作者で、元忠も父の死後はこの長俊に師事して、観世流に伝わる能を遍く伝承され、「近代の上手 」と言われる名人になったとされる。もっとも元忠と、大夫に劣らぬ名望を持った長俊並びにその子・元頼の関係は必ずしも良好ではなく、その全面的な支援を望めない情況で、若き元忠は観世座を背負っていくこととなった。 元忠は大夫就任直後から活動を始め、大永3年(1523年)12月には将軍・足利義晴が細川高国邸を訪れた際の猿楽に出演している。翌4年(1524年)、三条西実隆の元に年賀の挨拶に訪れ、同6年(1526年)には近衛尚通、三条西実隆の邸をそれぞれ訪問したことが記録に残っている。また同年2月には興福寺の薪猿楽に参勤、10月には将軍邸で金春との立合猿楽を演じた。同8年(1528年)3月には近衛尚通邸での花見で、弟などと一緒に謡を披露するなど、幕府・細川家の庇護を受け、権力者と強く結びついた活動を示している。 享禄3年(1530年)には、京五条で最初の勧進能を行う。この時の共演者には弥次郎長俊を始め、大鼓の大蔵九郎能氏(大鼓大倉流・小鼓大倉流の芸祖)、小鼓の宮増弥左衛門親賢、笛の彦兵衛など、歴史に名を遺した名人が連なっていた。22歳という若き大夫が、こうしたベテランの名手に支えられていたことは想像に難くない。うち宮増弥左衛門からは、弟の小宝生とともに闌拍子の相伝を受けている。 このように元忠は比較的順調に芸能者としての道を歩み始めたが、細川高国が享禄4年(1531年)に戦死し、将軍家の権威が低下すると、代々幕府と強く結びついてきた観世座も苦境に陥ることとなる。
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