育成と普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 13:38 UTC 版)
鉄砲鍛冶や皮革業を営む家に生まれた岡山友清は、豪商での奉公や小間物・茶などの行商を経験した後に帰郷し、行商や売薬業で生家の家産を増やしていった。一方で、道教一派である不二教の信者でもあった岡山は、食物の供給を豊かにすることこそが「人生最大の任務、最善の道徳」であるという信念を持つに至り、60歳のころから農業改良にも関心を持つようになった。 1849年(嘉永2年)、広く栽培されていた在来品種「大和」の中から変種を発見した岡山は、品質確認のために11年間試作を続けた。そして、1860年(万延元年)から、伊勢参りの参宮街道沿いの松阪・津・宇治山田で、袋入りの種籾に解説をつけて無料で配布を始めた。頒布した種籾は十石を超えたといい、各地に広がっていった。 明治に入ると三重県・奈良県・和歌山県などで広く栽培され、1919年(大正8年)には16,745haで作付けされた。しかし、長稈で倒伏しやすいなどの理由から避けられるようになり、さらに、戦後になると、多肥栽培に向かないことなどから栽培されなくなっていった。それでも三重県では昭和20年代後半になっても2,000ha近くが栽培されていたが、昭和40年代には姿を消した。
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