聾者教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 01:11 UTC 版)
「アレクサンダー・グラハム・ベル」の記事における「聾者教育」の解説
ベルの父はマサチューセッツ州ボストンのボストン聾学校(現在の Horace Mann School for the Deaf)校長サラ・フラーに同校のインストラクターに視話法を教えてほしいと頼まれたが、彼はそれを辞退して代わりに息子を推薦した。1871年4月、ボストンに出向いたベルは首尾よくインストラクターへの視話法伝授を成功させた。続いてコネチカット州ハートフォードにある American Asylum for Deaf-mutes、マサチューセッツ州ノーサンプトンの Clarke School for the Deaf でも同様の仕事をした。当時、猩紅熱(しょうこうねつ)の後遺症で聾者教育が深刻な問題となっていた。 6か月後にブラントフォードに戻ると、"harmonic telegraph" と名付けたものの実験を続けた。彼の意匠の根底にある概念は、1つの導線で複数のメッセージをそれぞれ異なるピッチで送るというものだが、そのための送信機と受信機が新たに必要だった。将来に確信がないまま彼はロンドンに戻って研究を完成させることも考えたが、結局ボストンに戻って教師をすることにした。父の紹介で Clarke School for the Deaf の校長ガーディナー・グリーン・ハバードが彼の開業を支援することになった。1872年10月、ボストンで視話法を教える学校 "School of Vocal Physiology and Mechanics of Speech" を開校。多くの若い聾者の注目を集め、開校当初に30人が入学した。のちに、当時まだ幼かったヘレン・ケラーと知り合っている。1887年、ベルはケラーに家庭教師アン・サリヴァンを紹介している。後年ケラーはベルについて、「隔離され隔絶された非人間的な静けさ」に風穴を開けてくれた人と評した。 ベルも含めた当時の影響力のある人々の一部には、聴覚障害を克服すべきものとする見方があり、金と時間をかけ聾者に話し方を教え手話を使わずに済むようにすることで、それまで閉ざされていた広い世界への道が拓けると信じていた。しかし、当時の学校ではしゃべることを強制的に訓練するために、手話ができないように手を後ろで縛るといった虐待も行われていた。ベルは手話教育に反対していたため、ろう文化に肯定的な人々はベルを否定的に評価することがある。
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