聖母マリアの家とは? わかりやすく解説

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せいぼマリア‐の‐いえ〔‐いへ〕【聖母マリアの家】

読み方:せいぼまりあのいえ

Meryem Ana Eviトルコ西部の町セルチュクにあるキリスト教徒聖地イエスの死後、聖母マリアエフェソス使徒ヨハネ晩年過ごしたとされたが、最期迎えた家は長らく見つからなかった。19世紀ドイツ修道女受けた天啓をもとに、この場所が探し当てられた。現在は小さな教会建てられている。


聖母マリアの家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:05 UTC 版)

アンナ・カタリナ・エンメリック」の記事における「聖母マリアの家」の解説

エンメリックがヴィジョンとして観た「The Life of The Blessed Virgin Mary邦題聖家族を幻に見て)」には、聖母マリアエフェソス近郊にある丘で暮らしていたとの記述載っている。ただし、エンメリック、また彼女のヴィジョン口述筆記し、この本としてまとめたクレメンス・ブレンターノエフェソス入ったことがなかった。そして実際、この場所は発掘がされた訳でもなかった。 しかし、1881年フランス司祭であるジュリアン・ゴヤット神父(the Abbé Julien Gouyet )は、この本の聖母マリアの家に関して描写している個所をその情報源として使って聖母マリア亡くなるまで暮らしていた家を捜索しその本記述に基づく通りの場所で、その家と思われる遺跡発見した。彼は当初だれにも真剣に相手にされなかったが、修道女のマリー・デ・モンデ・ゴンセ(Marie de Mandat-Grancey)がこの本と、ジュリアン・ゴヤット神父発見した場所に聖母の家があることを主張して、他の2名の司祭が同じ経路をたどり、そして遺跡の発見確認したローマ教皇庁は、まだこの場所が聖母の家であったことの確実性について、公式の立場とっていない。しかし、1896年に、教皇レオ13世訪問し1951年教皇ピオ12世はこの家を聖なる場所であることをまず最初に宣言した教皇ヨハネ23世は、後にこれを永久宣言とした。パウロ6世1967年ヨハネ・パウロ2世1979年、そして教皇ベネディクト16世2006年にこの家を訪れ、この家を聖地みなした

※この「聖母マリアの家」の解説は、「アンナ・カタリナ・エンメリック」の解説の一部です。
「聖母マリアの家」を含む「アンナ・カタリナ・エンメリック」の記事については、「アンナ・カタリナ・エンメリック」の概要を参照ください。

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