美術の中心はニューヨークへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:53 UTC 版)
「抽象表現主義」の記事における「美術の中心はニューヨークへ」の解説
1930年代のニューヨークは、ベン・シャーンら、労働者の貧しい現実や社会問題を描くリアリズム絵画や、「アメリカ地方主義絵画」が全盛で、モダニズムは肩身の狭い存在だった。そこにヨーロッパから渡米したハンス・ホフマン、ジョゼフ・アルバースらがグリニッジ・ヴィレッジで私塾を開き、抽象絵画を教え始めた。アメリカ人彫刻家のイブラム・ラソー(英語版)のスタジオにも、アド・ラインハート(英語版)、アルバースらが集い、のちに「アメリカン・アブストラクト・アーティスツ」という組織に発展した。ロスコやポロックなど、後の抽象表現主義のスターとなる作家たちがこうした中にいた。そして1940年代前半には、第二次世界大戦の戦火を避けて、ヨーロッパからシュルレアリスム、抽象絵画、バウハウス関係者など、美術家、音楽家、建築家、デザイナーら、あらゆる種類の前衛芸術家たちがニューヨークに亡命してきた。 彼らがアメリカに感じた魅力は、自由と豊かさ、大勢のパトロンの存在だったといえる。そしてアメリカの若い芸術家たちにとっても、ヨーロッパの最先端を吸収する絶好の機会となった。 第二次世界大戦以前は、アメリカ人の若い画家や彫刻家たちは、芸術の本場であるヨーロッパのパリなどに留学して学ぶことが一般的だった。アメリカはヨーロッパから一方的に学ぶ側で、アメリカ人の蒐集家たちも自国の作家よりヨーロッパの作家の作品を買い集めていた。たまに個々のアメリカ人画家や彫刻家がヨーロッパで評判になることはあっても、大きな影響を与えるようなことはなかった。ヨーロッパの前衛を担う人々がアメリカに移ってきたことで、アメリカでもモダニズムが開花し、ニューヨークの美術は先鋭的なものへと変わった。
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