織田純一郎 (翻訳家)とは? わかりやすく解説

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織田純一郎 (翻訳家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/06 11:32 UTC 版)

織田 純一郎(おだ じゅんいちろう、1851年6月21日嘉永4年5月22日〉 - 1919年大正8年〉2月3日)は、日本翻訳家ジャーナリスト[1][2]。本姓は若松[3]、もしくは大塚[1][2]。旧名は丹羽純一郎[2][3]。幼名は甲之助(幸之助とも表記)[4]

経歴

京都の生まれ[2]。実父は京都所司代与力であった大塚信敬とされているが[2]、その他にも一条家の侍であった若松氏若松永福)の次男として生まれた説もある[2][4]。後に三条家の侍であった丹羽正庸の養子となり[4]、純一郎と改名した[4]

明治維新後の1869年(明治2年)に上京、昌平黌にて学ぶが[2][4]、後に土佐致道館にて洋学を学んだ[2][4]1870年(明治3年)からはアメリカ合衆国経由でスコットランドエディンバラへ渡り[2]エディンバラ大学に留学した[4]

1874年(明治7年)7月の一時帰国後[4]東三条公恭と親交を持ち、同年ともに再渡英した[2][4]。公恭とともに法学を学び[3][5]1877年(明治10年)に正式に帰国[2][4]

1878年(明治11年)にはエドワード・ブルワー=リットンによる小説を『欧州奇事 花柳春話』と題して邦訳刊行し[1][2]、ベストセラーとなった[1]。後に来日した駐日英国大使館勤務の外交官ジョージ・サンソムからは「日本で彼が最初に信憑性のある翻訳をした先駆者」と高く評価された[2]1879年(明治12年)には祖父母の織田姓を名乗り[4]、同年同じくリットンの小説を翻訳した『寄想春史[3]ロンドンパリを紹介した著書等を刊行、以後多くの洋書の翻訳に携わった[2]

1885年(明治18年)には大阪朝日新聞の主筆となり[1][5]、翻訳家だけでなくジャーナリストとしての活動も始める。1891年(明治24年)には陸奥宗光らが刊行した『寸鉄』及び[1][2]板垣退助らが刊行した『社会新報』の主筆も務めた[1]。晩年は不遇の人生を送り[2]、故郷である京都にて逝去した[2]

著作

翻訳

主な論考・小説

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 織田純一郎”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2023年8月9日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 織田純一郎”. 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版). 2023年8月9日閲覧。
  3. ^ a b c d 織田純一郎”. 百科事典マイペディア(平凡社). 2023年8月9日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 織田純一郎”. 日本大百科全書(小学館). 2023年8月9日閲覧。
  5. ^ a b 織田純一郎”. デジタル大辞泉(小学館). 2023年8月9日閲覧。



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