総位階昇進復旧問題とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 総位階昇進復旧問題の意味・解説 

総位階昇進復旧問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 06:25 UTC 版)

藤波友忠」の記事における「総位階昇進復旧問題」の解説

後一条天皇から後陽成天皇35代の間には絶え行われていた、即位恩賞による禰宜権禰宜大小祠官への一斉位階昇進が、後水尾天皇明正天皇後光明天皇3代では行われなかった。これに対して伊勢両宮禰宜たちは正保4年1647年例幣再興あわせて昇進を、祭主友忠を通して願い出た。しかしこれは受け入れられず、再度願い出受け入れられなかった。 禰宜たちは、昇進受け入れられなかった理由を友忠のたくらみであるとして越訴計画し朝廷訴え出た。そして慶安5年5月24日1652年6月29日)、後光明天皇より、総位階昇進勅許を行う方針出された。友忠はこの方針を不服として、翌5月25日6月30日)、第3京都所司代板倉重宗対し昇進方針阻止願い出る。重宗は驚いて朝廷報せると、天皇自らが資料調べ上げた。重宗は、叡慮背いたとはいえ神職であるから流罪五畿内追放が妥当だという結論伝えられたが、9月11日10月13日)の例幣迫っていることを理由として、刑の執行延期要求する。それが受け入れられ慶安5年承応元年)の例幣には、友忠が参向した。 承応2年6月3日1653年7月27日)、友忠は出京する。閏6月21日8月14日)に江戸到着し翌日将軍徳川家綱対面した詮議経て、閏6月25日8月18日)、越後国村上藩松平藤松身柄預けられる翌日勅勘により、位記官職辞した7月2日8月24日)、将軍家綱より天皇に対して、友忠を佐渡国流罪とすることを奏上した。7月5日8月27日)、佐渡国渡った。妻と息子の景忠は、井伊直孝預けられた。 これにより、藤波家中絶した後任祭主には、大宮司河辺定長補任された。

※この「総位階昇進復旧問題」の解説は、「藤波友忠」の解説の一部です。
「総位階昇進復旧問題」を含む「藤波友忠」の記事については、「藤波友忠」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「総位階昇進復旧問題」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「総位階昇進復旧問題」の関連用語

1
藤波友忠 百科事典
14% |||||

総位階昇進復旧問題のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



総位階昇進復旧問題のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藤波友忠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS