総位階昇進復旧問題
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後一条天皇から後陽成天皇の35代の間には絶えず行われていた、即位恩賞による禰宜・権禰宜・大小の祠官への一斉位階昇進が、後水尾天皇・明正天皇・後光明天皇の3代では行われなかった。これに対して、伊勢両宮の禰宜たちは正保4年(1647年)例幣再興にあわせての昇進を、祭主友忠を通して願い出た。しかしこれは受け入れられず、再度の願い出も受け入れられなかった。 禰宜たちは、昇進が受け入れられなかった理由を友忠のたくらみであるとして越訴を計画し、朝廷に訴え出た。そして慶安5年5月24日(1652年6月29日)、後光明天皇より、総位階昇進の勅許を行う方針が出された。友忠はこの方針を不服として、翌5月25日(6月30日)、第3代京都所司代の板倉重宗に対し昇進方針の阻止を願い出る。重宗は驚いて朝廷へ報せると、天皇自らが資料を調べ上げた。重宗は、叡慮に背いた罪とはいえ神職であるから流罪か五畿内追放が妥当だという結論を伝えられたが、9月11日(10月13日)の例幣が迫っていることを理由として、刑の執行の延期を要求する。それが受け入れられ、慶安5年(承応元年)の例幣には、友忠が参向した。 承応2年閏6月3日(1653年7月27日)、友忠は出京する。閏6月21日(8月14日)に江戸に到着し、翌日、将軍徳川家綱と対面した。詮議を経て、閏6月25日(8月18日)、越後国村上藩主松平藤松に身柄を預けられる。翌日、勅勘により、位記・官職を辞した。7月2日(8月24日)、将軍家綱より天皇に対して、友忠を佐渡国に流罪とすることを奏上した。7月5日(8月27日)、佐渡国へ渡った。妻と息子の景忠は、井伊直孝に預けられた。 これにより、藤波家は中絶した。後任の祭主には、大宮司河辺定長が補任された。
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