経済広域化と飢饉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 16:22 UTC 版)
「東北地方の経済史」の記事における「経済広域化と飢饉」の解説
仙台に拠点を移した伊達氏は、江戸に最も近い外様の大大名として幕府との間に緊張関係が続いたが、仙台藩は、62万石の藩内経済、藩校である養賢堂の開設による智の集積、出版業などの産業の奨励によって、城下町仙台は日本で十指に入る大都市となった[要出典]。 江戸初期には各藩が新田開発を行い、余剰米が発生するようになったため、それらを各藩は江戸や大坂の蔵屋敷に送って商売を行うようになった(→支店経済)。他方、米中心の経済体制から離れて、特産物(国内市場向け)の創出、つまり「商品」開発を中心とした経済改革を行った上杉鷹山の米沢藩(15万石)、長崎俵物(国際市場向け)の産地であった仙台藩や盛岡藩(10~20万石)なども現れ、経済が広域化した。 大坂の堂島では、世界初の先物取引所(米)が開設されるなど、商品流通が広域的に活発化して利益を生んだが、その分、藩内経済と全国経済の連動が起きて問題もおきるようになった。そのため、「金経済圏」「銀経済圏」と並立する形で、領国内(藩内)のみで通用する地域通貨(藩札)も発行されるなど藩ごとに経済政策は異なり、同時期でも藩によって経済状況は大きく異なるようになった[要出典]。 東北地方、特に太平洋側では、やませによる冷夏が度々起きて農産物の収穫が下がる年が発生したが、それを契機に大坂で米の先物が高騰したり現物取引での買占めが起きた[要出典]。その際、藩内に農産物を留めて困窮した庶民に配給すれば食糧難は回避されるのに、大坂での米投機に便乗して米を大坂に運んだため、食糧難が加速して飢饉に至った(天保の大飢饉、天明の大飢饉)[要出典]。
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