篤農家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/13 23:19 UTC 版)
明治期の大日本帝国では地方公共団体の合併が推進されており、のちに「明治の大合併」と呼ばれるほどであった。鷲山の故郷である嶺向村も近隣の村と合併を繰り返しており、上土方村を経て土方村となっていた。また、嶺向村が属していた城東郡も、佐野郡と合併し小笠郡となっていた。こうして誕生した静岡県小笠郡土方村において、鷲山は1903年1月に嶺向報徳社を設立すると、その社長に就任した。以来、旧嶺向村を中心に、土方村で報徳や農村復興に向けた活動を続けた。一方で、他の地域での報徳や農村復興の啓蒙活動にも積極的に取り組み、地域や職域での報徳社結成を支援していた。こうした活動により、やがて鷲山は山崎常盤や西郷藤八とともに小笠郡を代表する報徳思想家として知られるようになった。 報徳運動の全国組織である大日本報徳社においても、1933年2月26日から亡くなるまで理事を務めた。さらに、1945年2月27日には大日本報徳社の副社長に就任し、1948年2月25日まで務めた。そのほか、1937年8月9日には大日本振興報徳会の顧問に就任し、1946年9月4日には報徳連合会の理事に就任するなど、関連組織の役職を多数務めた。なお、岡田良一郎が創設した勧業資金積立組合を起源とする掛川信用組合の経営にも携わることになり、1935年2月には組合長に就任している。 また、静岡県小笠郡土方村の村民からも信頼を置かれるようになり、晩年には村長に選出されることになった。その後、土方村は佐束村と合併することになり、1955年に城東村が新設された。1957年、静岡県小笠郡城東村にて死去した。
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