永富家について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 04:27 UTC 版)
永富家は揖保川下流域西部の、たつの市揖保川町付近の大地主であった。永富家の出自は伊賀国辺りといわれており、関ヶ原の戦い前後の1600年(慶長5年)頃には、この地に居住していたという記録が残っている。龍野藩時代には代々この地の庄屋を務めた。江戸時代中期以降は逼迫する藩財政とは逆に次第に裕福となり、藩に資金を融通したり、年貢の大坂への運搬を請け負うなど藩内で重要な地位を占めた。このため藩主の脇坂家より「在郷家臣」として上級武士の待遇を受け名字帯刀を許されていた。明治以降も農民の営農相談や物資の斡旋を行うなど篤農家として農協のような役割を果たしていた。 代々の当主は好学で勤勉であり、教養が高かったと言われている。特に明治時代の当主であった敏夫は漢詩の世界では「撫松」の号で著名を馳せた。敏夫の四男の守之助は鹿島家の養子となり鹿島建設を発展させ、政治家としても活躍した。
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