永安攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 14:27 UTC 版)
呉は蜀の敗れた事を知ると、将軍の盛憲を派遣して西上させ、援軍を送ると見せかけて羅憲を攻撃しようとした。羅憲は「漢(蜀漢)の滅亡は呉の命運に関わることであるのに、呉は我が難を救わず、利益を求め盟約を違えようとする。既に漢は滅び、呉も永くは保たれないであろう。どうして呉に降ることができようか」と言って永安城を堅守した。兵士たちがこの状況に動揺していたため、鎧を繕い、城壁を修復し、兵糧を集め、節義を説いて激励したところ、みな命令に従った。264年、呉は魏の鍾会・鄧艾が死んだ事を知り、さらに征西軍を派遣し、歩協に永安城を包囲させた。羅憲は魏の陳騫に使者を送る一方、歩協の軍を大いに破った。 春2月、孫休は、陸抗らに兵3万を与えて永安城をさらに囲ませた。およそ半年の間、魏の援軍は至らず、また城内の者の大半が病に罹った。ある者が羅憲に脱出の策を説いたが、羅憲は「人主とは民が仰ぎ見る者であり、危急に臨んで民をよく安んぜず捨て去ることは、君子のなすところではない」として容れなかった。秋7月、司馬昭は胡烈を援軍として派遣し、陸抗らを退却させた。羅憲はこの功績により旧職を委ねられ、陵江将軍を拝命し、万年亭侯に封じられた。
※この「永安攻防戦」の解説は、「蜀漢の滅亡」の解説の一部です。
「永安攻防戦」を含む「蜀漢の滅亡」の記事については、「蜀漢の滅亡」の概要を参照ください。
- 永安攻防戦のページへのリンク