築城時期・氏照入城時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:56 UTC 版)
1521年(永正18年・大永元年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重、定久が築城し、高月城から移ったといわれているが、実際は分かってない。1546年(天文15年)、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施した。 その一方で、1561年(永禄4年)春に上杉輝虎が小田原城を攻めた際に滝山城下を経由した形跡があるのに合戦が起きていないこと、同年7月に北条氏康が三田氏を攻めた際に滝山城よりも遠い由井城(浄福寺城とみられる)に本営を置いていることなど、滝山城が存在していれば起こり得ない事例を挙げて、同年当時滝山城はまだ存在していないという説もある。この説によれば、小田原城から由井の北条氏照への棟別銭免除の指示を示した朱印状が出された1563年(永禄6年)4月より北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた発給文書が出された1567年(永禄10年)9月までの4年余りの時期に上杉謙信の南下に対抗するために滝山城が築城されたとする。また、他にも滝山城への移転理由を北条氏が三田氏を滅ぼしてその旧領(勝沼領)を氏照に与えられたことをきっかけととも言われる。
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