筑紫率、左大臣とは? わかりやすく解説

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筑紫率、左大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 17:46 UTC 版)

蘇我赤兄」の記事における「筑紫率、左大臣」の解説

天智天皇8年669年1月9日、赤兄は筑紫率任命された。同年10月16日藤原鎌足死んだ後、19日天智天皇鎌足の家に行って思いやりある詔と金香炉与えた。このとき大錦上蘇我赤兄が、天皇の命で詔を述べる役を果たした。しかし『藤氏家伝』には、このとき遣わされたのは「宗我舎人臣」とある。蘇我氏には蘇我入鹿が鞍作という別名をもっていた例があるので、赤兄と舎人場合もそうだとみることもできるが、別人を指すとみる説もある。 この日付からすると、赤兄は筑紫赴任しなかったか、短期間都に戻ったことになる。赤兄の直前にみえる筑紫率天智天皇7年668年7月任命栗前王栗隈王)で、赤兄の直後見えるのは天智天皇10年671年6月筑紫帥(率と同じ)に任命されたやはり栗隈王である。いずれも『日本書紀』任命記事だけで知られ退任時と交代者についてはわからない。この錯綜から、このあたりの書紀記述誤りがあるのではないか考え歴史学者もいる。 天智天皇10年671年1月2日蘇我赤兄巨勢人が殿の前に進み賀正のことを奏した。赤兄の位はこのときも大錦上であった5日に、大友皇子弘文天皇)が太政大臣蘇我赤兄左大臣中臣金右大臣蘇我果安巨勢人紀大人の3人が御史大夫任命された。 同じ年の11月23日大友皇子上記左右大臣御史大夫は、内裏の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。すなわち、大友皇子香炉を手にして立ち、「天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った続いて赤兄ら五人が順に香炉取って立ち、「臣ら五人殿下に従って天皇の詔を報じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ子孫絶え家門必ず滅びることを」などと泣きながら誓ったここでいう天皇の詔」の内容不明だが、一般に天智天皇死後大友皇子即位させることだと考えられている。 29日五人の臣は大友皇子奉じて天智天皇の前で盟した。これも内容不明だが、前の誓い同じだ思われる

※この「筑紫率、左大臣」の解説は、「蘇我赤兄」の解説の一部です。
「筑紫率、左大臣」を含む「蘇我赤兄」の記事については、「蘇我赤兄」の概要を参照ください。

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