筑紫率、左大臣
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天智天皇8年(669年)1月9日、赤兄は筑紫率に任命された。同年10月16日に藤原鎌足が死んだ後、19日に天智天皇は鎌足の家に行って思いやりある詔と金香炉を与えた。このとき大錦上蘇我赤兄が、天皇の命で詔を述べる役を果たした。しかし『藤氏家伝』には、このとき遣わされたのは「宗我舎人臣」とある。蘇我氏には蘇我入鹿が鞍作という別名をもっていた例があるので、赤兄と舎人の場合もそうだとみることもできるが、別人を指すとみる説もある。 この日付からすると、赤兄は筑紫に赴任しなかったか、短期間で都に戻ったことになる。赤兄の直前にみえる筑紫率は天智天皇7年(668年)7月任命の栗前王(栗隈王)で、赤兄の直後に見えるのは天智天皇10年(671年)6月に筑紫帥(率と同じ)に任命されたやはり栗隈王である。いずれも『日本書紀』の任命記事だけで知られ、退任時と交代者についてはわからない。この錯綜から、このあたりの書紀の記述に誤りがあるのではないかと考える歴史学者もいる。 天智天皇10年(671年)1月2日、蘇我赤兄と巨勢人が殿の前に進み、賀正のことを奏した。赤兄の位はこのときも大錦上であった。5日に、大友皇子(弘文天皇)が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣、蘇我果安、巨勢人、紀大人の3人が御史大夫に任命された。 同じ年の11月23日、大友皇子と上記の左右大臣、御史大夫は、内裏の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。すなわち、大友皇子が香炉を手にして立ち、「天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて赤兄ら五人が順に香炉を取って立ち、「臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を報じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを」などと泣きながら誓った。ここでいう「天皇の詔」の内容は不明だが、一般には天智天皇の死後大友皇子を即位させることだと考えられている。 29日に五人の臣は大友皇子を奉じて天智天皇の前で盟した。これも内容が不明だが、前の誓いと同じだと思われる。
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