筑紫大宰・率・帥とは? わかりやすく解説

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筑紫大宰・率・帥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 06:42 UTC 版)

栗隈王」の記事における「筑紫大宰・率・帥」の解説

『日本書紀』には、天智天皇7年668年7月栗前王筑紫率8年669年正月蘇我赤兄筑紫率10年671年5月栗隈王筑紫帥に任命されたとある。この栗前王栗隈王同一人物とされる7年10年任命記事は同じことが別の年に再掲されたものだとする説がある。栗隈王壬申の乱勃発したときにも筑紫太宰地位にあって筑紫にいた。筑紫率筑紫帥、筑紫大宰は同じ官職別表記考えられている。 当時日本白村江の戦い敗れてから朝鮮半島への進出断念していたが、半島では新羅と唐が戦い続けていた。百済高句麗滅ぼされたが、唐は新羅支配下にある百済復興運動を、新羅は唐支配下にある高句麗復興運動後押しし各国とも日本使者派遣して親を通じようとしたそれゆえ筑紫帥の役割軍事・外交ともに重要であった天智天皇10年671年6月には新羅が調を進め7月には唐の使者李守真百済使者帰国し10月には新羅使者金万物が再び調を進め12月17日帰った11月には対馬から報告があって、唐の使者郭務悰百済の送使の孫登二千人の来朝の意が伝えられた。12月3日天智天皇亡くなり皇太子大友皇子弘文天皇)が朝廷率いることになった翌年3月30日郭務悰帰ったが、3月28日には高句麗使者富加扑らが調を進めた。これらの日付大半近江宮からみたものであろうから、筑紫栗隈王にとっては多少のずれがある。この頃使節往来他の時期比べて格段に多かった

※この「筑紫大宰・率・帥」の解説は、「栗隈王」の解説の一部です。
「筑紫大宰・率・帥」を含む「栗隈王」の記事については、「栗隈王」の概要を参照ください。

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