第7次ピブーン内閣
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「プレーク・ピブーンソンクラーム」の記事における「第7次ピブーン内閣」の解説
1952年3月24日 - 1957年2月26日 第7次ピブーン内閣は就任早々、平和委員会反乱の計画が発覚する。これは未遂に終わったが、メンバーが軒並み11月10日に更迭された。この事件の結果、ピブーンソンクラームの権力がさらに高まった。ピブーンソンクラームはこのころより永年宰相と呼ばれるようになる。 1953年4月14日、ピブーンソンクラームは夫人を連れて欧米を訪問。帰国後「これからはタイも民主主義で行く」と宣言した(ハイド・パーク運動)。この後、王宮広場でロンドンのハイド・パークにヒントを得て政見を自由に発表する場を設置した後の1955年9月26日には、ピブーンソンクラームは政党法を確立。一方でピブーンソンクラームは自分の支持基盤、自由マナンカシラー党(タイ語版、ドイツ語版)を設立して政党政治のタイへの浸透に勤めた。 1957年2月26日にはピブーンソンクラームの任期満了に伴い、選挙が実施された。ピブーンソンクラームはこの時、腐敗が発覚し、3月2日この不正に対するデモが生じた。この時、ピブーンソンクラームは非常事態宣言を発表。このデモの鎮圧を任されたのがサリット・タナラット陸軍司令官であった。サリットはデモを武力で頭ごなしに鎮圧するのを避け、対話の姿勢を取った。このころからサリットはピブーンソンクラームに愛想を尽かし始めていた。同年3月14日には非常事態宣言を解除して21日第8次ピブーン内閣を成立させた。
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