第7次戦争とアンジュー公の死とは? わかりやすく解説

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第7次戦争(1579年 - 1580年)とアンジュー公の死(1584年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:31 UTC 版)

ユグノー戦争」の記事における「第7次戦争1579年 - 1580年)とアンジュー公の死(1584年)」の解説

王弟アンジュー公フランソワとその支持者たちはネーデルラント反乱介入して戦争行い宮廷混乱生み出し続けていた(アンジュー公フランソワネーデルラント北部諸州連合君主地位提案されていた)。一方地方情勢カトリックとプロテスタント自衛のために武装して無秩序に陥っていた。 1579年11月コンデ公アンリがラ・フェールを襲撃し新たな戦争始まった。「恋人たち戦争」(guerre des Amoureux)と呼ばれるこの戦争は、1580年11月アンジュー公フランソワとの交渉によりル・フルクスの和議結ばれて終結している。 この脆い妥協は、1584年6月国王末弟推定相続人アンジュー公フランソワ死去したことにより終わったアンリ3世には世継ぎがなく、サリカ法に基づく次の王位継承者ルイ9世血を引くナバラアンリとなるが、彼は従弟コンデ公アンリとともに教皇シクストゥス5世から破門された身であったナバラアンリプロテスタント信仰捨てない明らかになると、12月ギーズ公アンリカトリック同盟代表としてスペイン王フェリペ2世とジョアンヴィル条約結んだフェリペ2世フランス内乱続けさせ、カルヴァン派壊滅させる目的で、10年カトリック同盟莫大な援助提供することになる。

※この「第7次戦争(1579年 - 1580年)とアンジュー公の死(1584年)」の解説は、「ユグノー戦争」の解説の一部です。
「第7次戦争(1579年 - 1580年)とアンジュー公の死(1584年)」を含む「ユグノー戦争」の記事については、「ユグノー戦争」の概要を参照ください。

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