第七回使節
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1275年(建治元年・至元12年)2月、クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服属させるため、モンゴル人の礼部侍郎・杜世忠を正使、唐人の兵部侍郎・何文著を副使とする使節団を派遣した。通訳には高麗人の徐賛、その他にウイグル人の刑議官・チェドゥ・ウッディーン(徹都魯丁)、果の3名が同行した。 使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下5名を斬首に処した。 これは使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる。斬首に処される際、杜世忠は以下のような辞世の句を残している。 「出門妻子贈寒衣 問我西行幾日歸 來時儻佩黃金印 莫見蘇秦不下機」 「門を出ずるに妻子は寒衣を贈りたり、我に問う西に行き幾日にして帰ると、来たる時もし黄金の印を佩びたれば、蘇秦(中国戦国時代の弁論家)を見て機を下らざるなかりしを」 (家の門を出る際に私の妻子は、寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。そして私に西に出かけて何日ほどで帰ってくるのかと問う。私が帰宅した時に、使節の目的を達して、もし(恩賞として)黄金の印綬を帯びていたならば、蘇秦の妻でさえ機織りの手を休めて出迎えたであろう)
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