第七回使節とは? わかりやすく解説

第七回使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「第七回使節」の解説

1275年建治元年至元12年2月クビライ日本侵攻の準備進めとともに日本服属させるため、モンゴル人礼部侍郎杜世忠正使唐人兵部侍郎・何文著を副使とする使節団派遣した通訳には高麗人の徐賛、その他にウイグル人の刑議官・チェドゥ・ウッディーン(徹都丁)、果の3名が同行した使節団長門国室津来着するが、執権北条時宗使節団鎌倉連行すると、龍ノ口刑場江ノ島付近)において、杜世忠以下5名を斬首処した。 これは使者日本国情詳細に記録偵察した間諜スパイとしての性質強く帯びていたためと言われる斬首処される際、杜世忠は以下のような辞世の句残している。 「出門妻子贈寒衣 問我西行幾日歸 來時儻佩黃金蘇秦下機」 「門を出ずるに妻子は寒衣を贈りたり、我に問う西に行き幾日にして帰ると、来たる時もし黄金の印を佩びたれば、蘇秦中国戦国時代弁論家)を見て機を下らざるなかりしを」 (家の門を出る際に私の妻子は、寒さ凌ぐ衣服贈ってくれた。そして私に西に出かけて何日ほどで帰ってくるのかと問う。私が帰宅した時に使節目的達して、もし(恩賞として)黄金印綬を帯びていたならば、蘇秦の妻でさえ機織りの手休めて出迎えたであろう

※この「第七回使節」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「第七回使節」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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