竹刀と防具の発明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:13 UTC 版)
詳細は「竹刀稽古」を参照 古くから多くの流派で独自の袋竹刀(ひきはだ撓)や小手を使用した稽古は行われていたが、多くの場合形稽古が中心であった。しかし長期にわたり実戦から遠ざかると、「華法(花法)」といわれる見かけばかり華麗な動作が加えられるようになった。華法の弊害を払拭するために江戸時代中期から後期にかけて、防具と竹刀(割竹刀)が直心影流や中西派一刀流で改良され、本格的に打ち合う稽古(試合稽古)が行なわれるようになった。いわゆる「撃剣」である 。 剣術史上のエポックといえる開発であったが、その得失について賛否両論があった。やがて竹刀打ち込み稽古は広く普及し、この流れが明治以降の剣道へとつながっていく。試合稽古の流行にともない、流祖以来試合を禁じていた流派が、やむなく試合稽古を行うようになった記録も残っている。一方、尾張藩の新陰流や岩国藩・長州藩の片山伯耆流、弘前藩の當田流などといった形稽古中心で試合稽古を取り入れなかった流派では、門弟の数に著しい増加はなかった。
※この「竹刀と防具の発明」の解説は、「剣術」の解説の一部です。
「竹刀と防具の発明」を含む「剣術」の記事については、「剣術」の概要を参照ください。
- 竹刀と防具の発明のページへのリンク