空海とのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:51 UTC 版)
延暦23年(804年)5月12日、第十八次遣唐使船に乗った空海は難波津を出発して唐へ渡航した。空海一行は苦難の末、12月23日に長安に入り、寄宿舎先となる西明寺で般若三蔵のもとサンスクリットに磨きをかけ、延暦24年(805年)6月12日に般若の紹介で、仲間と共に恵果を訪ねる。空海の才能と気概を知ることとなっていた般若から話を聞いていた恵果は、すぐさま空海が自らの正嫡に価する法器であることを見抜き、翌日に胎蔵界の「受明灌頂」を授け、7月上旬に金剛界の「受明灌頂」を授け、8月10日には阿闍梨位に上る「伝法灌頂」を行った。そして、恵果は宮中の絵師たちに、両界曼荼羅図や密法具の製作を命じ、不空から授かったものや自分の付嘱物を空海に与え、「この法をすぐに日本に持ち帰りそれを弘めなさい、それが私への報恩になる」と諭した。 その後すぐの12月15日、恵果は自坊の東塔院で没した。空海に、ぎりぎりのところで恵果のすべてを授けることができたのであった。翌年正月16日、遺骸は場外の龍原にある不空の塔の側に埋葬され、弟子を代表して空海がその碑文「大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂阿闍梨恵果和尚之碑」を撰した。 空海は師の埋葬を見届け、手配していた曼荼羅ほかの品々も全てできあがった2月中旬から下旬には長安を発った。
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