究極的真理としての「真諦」(第一義諦・勝義諦)
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「中観派」の記事における「究極的真理としての「真諦」(第一義諦・勝義諦)」の解説
しかし一方で、こうした徹底した相互依存性・相対性に則ると、当然の帰結として、(『中論』24章の冒頭でも論敵による批判として触れられているように) 釈迦自身がとなえた教え(四諦・涅槃・四向四果(四沙門果)等)すらもまた、相対化してしまうことになる。 こうした問題は、『中論』24章冒頭にそれが取り上げられていることからも分かるように、ナーガールジュナ自身にも強く意識されていた。そこで、『中論』24章にも書かれているように、ナーガールジュナはここで、「二諦」(satya-dvaya, サティヤ・ドヴァヤ)という発想を持ち込み、「諦」(真理、satya, サティヤ)には、 世俗の立場での真理 --- 「俗諦」(世俗諦、saṃvṛti-satya, サンヴリティ・サティヤ): 分別智(vikalpa-jñāna) 究極の立場から見た真理 --- 「真諦」(第一義諦・勝義諦、paramārtha-satya, パラマールタ・サティヤ): 無分別智(nirvikalpa-jñāna) の2つがあり、釈迦が悟った本当の真理の内容は、後者、すなわち自分達が述べているような、徹底した相互依存性・相対性の感得の果てにある(概念・言語表現を超えた)「中観」(「無分別」)の境地に他ならないが、世俗の言葉・表現では容易にはそれを言い表し得ず、不完全に理解されて凡夫を害してしまうことを恐れた釈迦は、あえてそれを説かずに、前者、すなわち従来の仏教で説かれてきたような、凡夫でも理解出来る、レベルを落とした平易な内容・修行法を、(方便として)説いてきた(が、釈迦の説を、矛盾の無いように、よくよく精査・吟味していけば、我々の考えこそが正しいことが分かる)のだという論を展開した。 中観派は、説一切有部からは都無論者(一切が無であると主張する論者)と評された。また、経部の『倶舎論』およびそれに対するサンスクリット文註釈は、「中の心を有する人」を仏教内における異端説であるときめつけている。中観派は、中観派と同じ大乗仏教に属するヨーガ行派のスティラマティからも「一つの極端説に固執する極端論」と評され、ダルマパーラからは「唯識の理に迷謬せる者」、「非有を執している」と評され、ジナプトラらの瑜伽師地論釈では「空見に著している」と評された。中観派は何となく気味の悪い破壊的な議論をなす虚無論者である、という説は既に古代インド一般にいわれていたことである。
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