究極的真理としての「真諦」とは? わかりやすく解説

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究極的真理としての「真諦」(第一義諦・勝義諦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/09 18:24 UTC 版)

中観派」の記事における「究極的真理としての「真諦」(第一義諦勝義諦)」の解説

しかし一方でこうした徹底した相互依存性・相対性に則ると、当然の帰結として、(『中論24章冒頭でも論敵による批判として触れられているように) 釈迦自身となえた教え四諦涅槃四向四果四沙門果)等)すらもまた、相対化してしまうことになる。 こうした問題は、『中論24章冒頭にそれが取り上げられていることからも分かるように、ナーガールジュナ自身にも強く意識されていた。そこで、『中論24章にも書かれているように、ナーガールジュナはここで、「二諦」(satya-dvaya, サティヤ・ドヴァヤ)という発想持ち込み、「諦」(真理satya, サティヤ)には、 世俗立場での真理 --- 「俗諦」(世俗諦saṃvṛti-satya, サンヴリティ・サティヤ): 分別智(vikalpa-jñāna究極立場から見た真理 --- 「真諦」(第一義諦勝義諦paramārtha-satya, パラマールタ・サティヤ): 無分別智(nirvikalpa-jñāna) の2つがあり、釈迦悟った本当真理内容は、後者、すなわち自分達が述べているような、徹底した相互依存性・相対性の感得果てにある(概念言語表現超えた)「中観」(「無分別」)の境地他ならないが、世俗言葉表現では容易にはそれを言い表し得ず不完全に理解され凡夫害してしまうことを恐れた釈迦は、あえてそれを説かずに、前者、すなわち従来仏教説かれてきたような凡夫でも理解出来る、レベル落とした平易な内容修行法を、(方便として)説いてきた(が、釈迦の説を、矛盾の無いようによくよく精査吟味していけば、我々の考えこそが正しいことが分かる)のだという論を展開した中観派は、説一切有部からは都無論者(一切が無であると主張する論者)と評された。また、経部の『倶舎論』およびそれに対すサンスクリット文註釈は、「中の心を有する人」を仏教内における異端説であるときめつけている。中観派は、中観派と同じ大乗仏教属すヨーガ行派のスティラマティからも「一つ端説に固執する端論」と評されダルマパーラからは「唯識理に迷謬せる者」、「非有執している」と評され、ジナプトラらの瑜伽師地論釈では「空見著している」と評された。中観派は何となく気味の悪い破壊的な議論をなす虚無論者である、という説は既に古代インド一般にいわれていたことである。

※この「究極的真理としての「真諦」(第一義諦・勝義諦)」の解説は、「中観派」の解説の一部です。
「究極的真理としての「真諦」(第一義諦・勝義諦)」を含む「中観派」の記事については、「中観派」の概要を参照ください。

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