移民者との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 05:31 UTC 版)
1829年、イギリスからの移民が彼らの土地に現れ、スワン川岸に植民地を設けた。ヌンガーは白人の移民者を、死者の魂がこの世に戻ってきた「Djanga」と考えたこともあり、また何らかの資源をめぐる所有権について争うことも無かったため、最初の2年間は両者間に争いはほとんど生じなかった。しかし、時が経つにつれ異文化が接触した際の軋轢は顕著となり、やがて衝突が起こるようになった。移民者たちはヌンガーを放牧民族とみなし、土地を自由に往来しようが、耕作などのために囲いを設けようが、何ら主張や宣言をせずとも問題ないと考えていた。柵は段々と広がり、ヌンガーの昔からの放牧地や神聖とみなしていた地をも侵食し始めた。1832年頃には、払い下げられた土地に阻まれイェーガンのグループはスワン川やカニング川に近づくことすら出来なくなっていた。猟場を失ったヌンガー族たちは、獲物を探し回った末に移民者の作物や牛に手を出さざるを得なくなった。また、移民が持ち込んだ小麦など目新しい食べ物の味を覚えたヌンガーたちは窃盗に走り、植民地にとって深刻な問題となりつつあった。一方で、茂みに火を放って新芽の発育を促すアボリジニ伝統の火入れ耕作 (en) が、移民が建てた家屋に火災の危険をもたらすことも問題視された。 西オーストラリア最初で深刻なアボリジニの反乱は、1831年12月に起こった。農場経営者アーチボルド・バトラーのところで働いていた使用人トーマス・スメドレーは、ジャガイモ泥棒を畑で待ち伏せていたところ、盗みにやってきたアボリジニたちを見つけ発砲した。この銃撃を受け死亡した男はイェーガンの家族の一員だった。数日後、イェーガンは父Midgegoorooや他の数名と復讐のために農場の家を襲い、ドアが施錠されているとみるや日干し煉瓦の壁を壊し始めた。その家に住んでいたのは銃撃したスメドレーではなく、他の使用人のひとりエリン・エントウィッスルと二人の息子エニオンとラルフだった。エリンは子供たちをベッドの下に隠し、話し合うためにドアを開けた。だが、イェーガンと父は有無を言わさず槍を振るって突き刺し、エントウィッスルは即死した。ヌンガー族の掟では、殺人の報復は必ずしも当事者ではなくとも、部族内の誰かに向けられてもよいものとされていた。銃撃したスメドレーも、殺されたエントウィッスルも、同じバトラーと生活を共にする部族グループの構成員と見なす限り、ヌンガー族にとってこの復讐は正当なものと言えた。しかし、白人移民者側から見れば、この事件は無実の者が殺された犯罪行為であった。
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