福井本藩の後継者争いとは? わかりやすく解説

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福井本藩の後継者争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 09:58 UTC 版)

越前松岡藩」の記事における「福井本藩の後継者争い」の解説

正保2年1645年)、時の福井藩主・松平忠昌結城秀康の子)が死去し、その跡を嫡子だが次男松平光通継いだ。このとき、光通は弟の松平昌親2万5000石を分与吉江藩)し、同じく兄である松平昌勝5万石を分与した。この昌勝に分与した5万石により、松岡藩成立した。忠昌・光通の死後の越前松平家福井藩では家督争い続き、これにより福井藩次第所領削られていったが、藩内を大混乱に陥れたこの騒動原因に光通と昌勝の兄弟関係が挙げられる。昌勝と光通は共に寛永13年1636年生まれであるが、昌勝は3月、光通は7月生まれであり、昌勝は光通の兄に当たる。にもかかわらず兄の昌勝が藩主となれなかったのは、昌勝は妾腹の子であり、光通は正室の子であるという理由からであった延宝2年1674年)、光通が死去した後、遺言により兄の昌勝を差し置いて、さらに弟の昌親が後を継いだ。このときいまだ嗣子のなかった昌親は昌勝の長男である松平綱昌養嗣子として迎えた。だが、これらの措置に不満を持つ福井藩家臣団対立激しく延宝4年1676年)には早々に“兄の子”の綱昌に家督譲っている。ところが貞享3年1686年)、綱昌は病気不行跡理由として、幕命により福井藩は一旦改易指示出たが、福井藩結城秀康藩祖とする名族であったため、昌親が吉品改名して再び藩主となることで存続されることとなった。しかし、やはり吉品には嗣子無かったため、元禄14年1701年)に昌勝の六男・松平吉邦を養子として迎え宝永7年1710年)の吉品隠居により、家督継いで藩主となっている。 一方松岡藩初代藩主・昌勝は元禄6年1693年)に死去し、その跡を三男昌平継いだ。しかし、享保6年1721年)に本家継いでいた吉邦が没すると、遺命により昌平本家家督継いで福井藩主となり、将軍徳川吉宗から一字拝領し「宗昌」と名乗った松岡藩廃藩となり、その所領福井藩併合された。

※この「福井本藩の後継者争い」の解説は、「越前松岡藩」の解説の一部です。
「福井本藩の後継者争い」を含む「越前松岡藩」の記事については、「越前松岡藩」の概要を参照ください。

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