福井松平氏の事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:10 UTC 版)
結城秀康(北ノ庄藩)は越前国と下総国結城ほかで67万石を持ったが、松平忠直の代に下総結城を失い、越前周辺のみとなる(結城氏の別家取り立てによる家紋の譲渡と松平に復帰)。北ノ庄城のほか附家老の両本多氏が丸岡城と越前府中城を持ち、それ以外の城を破却した。 忠直の改易後に50万石で入部した松平忠昌が福居(後に福井)城と改め、本多成重が丸岡藩の大名として独立する。本多富正は福井藩の家老となり、府中城の一部を破却、改修して「御館」「御茶屋」と改めたが、実質は天主に相当する二層の櫓のある城である。 福井藩はその後も騒動が頻発して、さらに25万石になり越前一円領有ではなくなった。領地宛行状が国名の「越前少将」から城地名の「福井侍従」になるなど家格が下がったが(幕末に32万石と少将に回復)、福井城と藤垣茶屋(府中城)を維持した。 また越前系の大名たちを総称して「越前松平氏」「越前松平家」と称する場合もあり、松江松平氏の松江城、前橋松平氏の厩橋城のように一族で複数の城を所有している。
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