禁止と解禁の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:23 UTC 版)
江戸時代初期には、大名の末期養子は江戸幕府によって禁じられていた。武家の家督を継ぐためには、主家(大名にとっては徳川将軍家が主家ということになる)に事前に届出をして嫡子たることを認められる必要があり、末期養子はこの条件を満たすことができない。御目見以上の格の大名家においては、さらに将軍との謁見を済ませておくことも必要とされた。末期養子がこのように厳しく禁じられたのは、次のような事情による。 まず、末期養子においては当主の意思の確認が困難であったことによる。家臣などが当主を暗殺して、彼らに都合の良い当主に挿げ替えるなどの不法が行われる事態を危惧したものである。しかし最も重要な理由として、幕府が大名の力を削ぎ統制を強めることに大いに意を用いていたことが挙げられる。末期養子の禁止もその手段の一つとして活用されたのである。 支配体制のいまだ確立していない江戸時代初期には特に顕著で、幕府の成立から3代将軍徳川家光の治下にかけて、嗣子がないために取り潰される大名家が続出した(改易#江戸時代以降に改易に遭った大名中、改易理由が「無嗣断絶」となっているものを参照)。これは幕藩体制を確立するために大いに役立った。しかしその反面、それらの大名家に仕えていた武士たちは牢人となる他なく、社会不安も増すことになった。 それが極致に達したのが、慶安4年(1651年)に起きた慶安の変である。由井正雪ら浪人が徒党を組んで幕府転覆を図ったこの事件は、幕府の大名統制策が新たな不安定要因を生み出していたことをはっきりと示していた。またこれより前、寛永14年(1637年)から翌年にかけて起こった島原の乱においても、多くの浪人が一揆に加わったことがその鎮定を困難にしたとされる。慶安5年(1652年)の承応の変と合わせて、これらの出来事は武断政治から文治政治への転換を促した。
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