神性への突破とは? わかりやすく解説

神性への突破

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 08:25 UTC 版)

マイスター・エックハルト」の記事における「神性への突破」の解説

エックハルトにとって最高の徳は離脱である。それは愛や慈悲謙虚よりも貴い愛することよりも離脱高貴だというのは、愛が私に神を愛させるのに対し離脱は神に私を愛させるからである。愛は神のためにあらゆるものを忍従する。離脱あらゆる物から脱却し、神をみずからの内に迎え入れて神を神たらしめる離脱内面において達成される外的な所有物をいくら捨てても、己の意志捨てなければ離脱することはできない。これは当時ドミニコ会対立していたフランチェスコ会の、自分所有物捨てようとする清貧運動対す批判含んでいる。 イエスの「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。」という言葉解釈分かれる言葉であるが、エックハルトは「心の貧しい者」を、意志貧しい者、自己捨てたものとみなして同意している。彼はここで無我唱える仏教に近づいている。しかし彼のキリスト教からの跳躍はここにとどまらないエックハルトはさらに神からの離脱説く。神と考えられるもの、それは真の神ではない。考え消えれば考えられた神は消えてしまう。そのような神は所詮、我の立てたのであるエックハルト神と神性を分けているのは重要である。神は三位一体という形を有するが、神性が、神をそのようにあらしめているもの、いわば神の本質である。エックハルトはしかしこの神の本質神性としての無と表現する。有として形ある神は突破されなくてはならない純粋な有たる神が本質的に神性という無であり、無という神性徹した我が、最高の存在になるというのは、初発に無と有を峻別しながらも、無の貫徹に終わる境地である。「生むもの」と「生まれるもの」は、一方能動、もう一方受動であるという以外は全く同じ一つの「生」であると言われるエックハルト一切の神イメージを持つことから脱し、神と合一した自己をも捨てた究極の無を目指している。

※この「神性への突破」の解説は、「マイスター・エックハルト」の解説の一部です。
「神性への突破」を含む「マイスター・エックハルト」の記事については、「マイスター・エックハルト」の概要を参照ください。

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