神代徳次郎事件
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第7代藩主松平勝行の時代には、『多古町史』が「多古藩で最大の事件」と評する.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}神代(くましろ)徳次郎事件が発生する。神代徳次郎は元唐大通事で、多古藩に「永御預」が命じられていたが、嘉永2年(1849年)7月3日に収容されていた多古の屋敷から逃亡したというものである。藩領内外での捜索が行われ、江戸家老の高橋勘作が責任を取るという形で切腹するなど藩は対応に追われた。神代は京都で捕縛されたが、事態収拾に要した出費は小藩には莫大であった。同年12月19日の幕府の裁許により、神代は死罪、藩主勝行は閉門処分を受け、家中14人に処罰(中追放2名、軽追放1名、押込11名)が行われた。 嘉永3年(1850年)5月に藩主勝行の閉門は解かれたが、12月に下総国・上総国の領地の大部分を召し上げて陸奥国楢葉郡・石川郡に代地を与える領地替え処分が行われた。『多古町史』によれば、領地替え前の多古藩の内高(実高)はこまめな検地による耕作地の把握や新田開発などによって1万6300石余あったが、開発が遅れ荒畑の多い地域への領地替えが行われた結果として、表高に変更はなかったものの内高にして2000石あまりの減石となった(明治初年の多古藩の内高は1万4173石であった)。
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神代徳次郎事件
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嘉永2年(1849年)2月15日、初めて領地の多古に入るための半年間の暇を得る。 嘉永2年(1849年)7月3日夜、多古藩が幕府から「永御預」を命じられていた'"`UNIQ--templatestyles-0000004F-QINU`"'神代(くましろ)徳次郎が、収容されていた多古の屋敷から逃亡した。新藩主勝行が初めての国入りから江戸に出府する準備に藩内が追われた隙を狙っての脱出であった。 藩領内外での捜索が行われ、江戸家老の高橋勘作が責任を取るという形で切腹するなど藩は対応に追われた。神代は京都で捕縛されたが、事態収拾に要した出費は小藩には莫大であった。同年12月19日の幕府の裁許により、神代は死罪、藩主勝行は閉門処分を受け、家中14人に処罰(中追放2名、軽追放1名、押込11名)が行われた。 嘉永3年(1850年)5月に藩主勝行の閉門は解かれたが、12月に下総国・上総国の領地の大部分を召し上げて陸奥国楢葉郡・石川郡に代地を与える領地替え処分が行われた。表高に変更はなかったものの内高にして2000石あまりの減石となった。
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