県境の確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 11:08 UTC 版)
山形・宮城両県の県境未定地問題は、裁判沙汰になったことで一気に日本中の注目を集めることとなった。そこで自治省(現総務省)が介入し、専門家による現地調査を行い、両県及び上山市、七ヶ宿町への聞き取り調査も行い、一旦は、林班界を県境とするという裁定を行った。 ところが、今度は七ヶ宿町が、林班界を境界にする裁定に不服を申し立てたため、混乱に拍車をかけることとなった。もともと七ヶ宿町は、林班界を境界として認識していたが、それが固定化すると、もっと獲得できるはずの町域が狭まってしまうという思惑があったためである。 結局、県境問題はこのまま棚晒しにされ、ようやく県境が確定したのは1984年(昭和59年)のことであった。実に20年も県境問題が放置されたことになる。結局、県境は、登山道と林班界の中間に引くという玉虫色の決着となった。その間、上山市と七ヶ宿町の両住民は、藩政時代からの因縁まで持ち出し、一時は険悪な雰囲気になったと言われている。 営林署に対する損害賠償請求裁判はその後も続き、794万円の支払いで結審し、裁判が終わったのは1995年(平成7年)のことである。足掛け30年にも及ぶ裁判であった。
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