盛岡城へ連行とは? わかりやすく解説

盛岡城へ連行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:57 UTC 版)

ブレスケンス号事件」の記事における「盛岡城へ連行」の解説

捕えられた船員達は先ず盛岡城連行された。船長のスハープは 「…城壁のある町に来たので、この町で、多分大領主或は小さな国王前に出るため、このような事が起こったのだと気付いた様々な木のある庭園や、色々な店を連ねた大通りがあるこの美しい町を通って町はずれにある大きな屋敷木造の高い門の中の離れ案内された」 と、日記城下町印象記している。その後藩主南部重直謁見した船員達は丁重なもてなし受けた藩主当初彼らを密航した宣教師ではないか疑い通訳役人に、ポルトガル人スペイン人フランス人イギリス人デンマーク人スウェーデン人クレタ人(ギリシャ人)ではないか質問させた。また十字架差し出して祈祷するように言った。彼らはこれらを拒否しオランダ人である、と答えまた、皇帝(徳川家)の許可得て長崎交易をしたり毎年江戸で皇帝拝謁し贈り物もしていると答えた藩主は更に彼らを試すため踏絵用い聖母マリア描かれ銅板差し出し、これに接吻するはずだと言った。しかし船員達は反対に銅板に唾を吐き、これを砕いてもよいかと尋ねた。これを聞いた藩主大笑いし、彼らが宣教師などではないことを確認した。また船員一人セイロン島ポルトガル人から受けた傷を見せポルトガル人こういうことをする我々の仇敵であると答えたこうしたアピール藩主気に入られた。その後二週間盛岡滞在した後、江戸へ出立した。スハープの日記によると、滞在中彼らの身辺世話をしていた役人は涙を流し別れ惜しんだという。

※この「盛岡城へ連行」の解説は、「ブレスケンス号事件」の解説の一部です。
「盛岡城へ連行」を含む「ブレスケンス号事件」の記事については、「ブレスケンス号事件」の概要を参照ください。

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