百済・高句麗の滅亡と新羅の統一
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「日朝関係史」の記事における「百済・高句麗の滅亡と新羅の統一」の解説
朝鮮半島は、中国の唐と新羅の同盟が成立したことで統一に向かう。劉仁軌の唐軍と金法敏の新羅軍が百済を攻撃して扶余を陥落させ、義慈王と太子扶余隆が唐の洛陽に送られて百済が滅ぼされた。倭国は百済再興の名義で、安曇比羅夫、朴市秦田来津、阿倍比羅夫らの軍勢を朝鮮に派遣した。加えて百済の遺臣鬼室福信の要請により、倭国への質として送られていた百済の王子余豊璋を護送した。斉明天皇は余豊璋が旧百済の地に帰国する直前に百済王として即位させたと『日本書紀』に記録されている。倭国は百済の軍勢と共に白村江(現在の韓国・錦江)で唐・新羅軍と戦い、この白村江の戦いで倭国・百済軍は敗北した。百済の再興はならず、倭国は朝鮮半島から完全に撤退した。高句麗は百済の滅亡で軍事的に孤立し、唐の高句麗出兵で宝蔵王らが唐に投降して滅んだ。 唐は新羅の文武王を鶏林州都督府の大都督に任命して、朝鮮半島を羈縻州として支配しようとしたために唐・新羅戦争が起きた。新羅が唐を撤退させて朝鮮半島を統一すると、倭国は遣新羅使の派遣を始めて、新羅は日本に新羅使を派遣した。以後、遣新羅使と新羅使は中断をはさみつつ約150年間に渡って続くことになる。倭国からの遣唐使の航海では新羅の沿岸を通るため、新羅との関係は遣唐使にとって重要だった。倭国と新羅の関係が悪化したため、倭国は遣唐使を第7次派遣後に中断して、第8次は五島列島方面の南ルートを選んで再開した。
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