異姓の小野寺氏
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小野寺を名乗る諸家はほとんどが上述の藤原姓を称しているが、わずかながら異姓の小野寺氏が存在する。 以下の例は時期の前後長短の違いはあれほとんど葛西家臣であり、源姓小野寺氏以外はすべて現在の岩手県一関市の一部にそれぞれの所領をもっていた(葛西家臣の中には多くの小野寺氏がいるが、ほとんどは上述のように藤原姓であってこれらは例外的存在である)。 平姓小野寺氏千葉氏の分流で、小野寺胤兼・小野寺久道・小野寺道庶・小野寺重光の四系統がある。胤兼と久道はともに源頼朝に仕え後に葛西家臣となった。道庶と重光は葛西氏の分流である。道庶の系統は葛西信胤の子であった道庶が母方の姓を名乗って小野寺を称したのが始まり。重光の方は葛西清重の子孫で息子の重政に小野寺家を継がせ自らも小野寺氏を称したその子孫。 橘姓小野寺氏葛西晴胤に仕えた小野寺清俊の家系。清俊は橘姓を称していた。 源姓小野寺氏(清和源氏)及川氏の分流で、現在の宮城県気仙沼市の一部に所領を有し下鹿折氏(または鹿折氏)を名乗っていたが、下鹿折時兼(通称:鹿折信濃)の時、「浜田広綱の乱」があり、鹿折氏は葛西家臣だったにもかかわらず浜田氏に与したため葛西氏の命を受けた熊谷氏に滅ぼされた(浜田広綱の乱とは浜田の陣ともいい、永禄3年(1560年)から天正16年(1588年)にかけて葛西氏に対して浜田広綱がおこした謀反である。)。その後、鹿折信濃は浪人となって彷徨った。旧領地の支配者は熊谷氏から木村吉清へと二転三転したが、天正19年(1591年)に最終的に伊達氏の所領になると、鹿折に戻り、小野寺氏を名乗って帰農、その子孫は多くの分家を生んで繁茂した。小野寺氏は気仙沼市で最も多い苗字であるがそのうち鹿折地区の小野寺氏はすべてこの鹿折信濃の末裔である。 源姓小野寺氏(村上源氏)北畠氏の分流で、江戸時代後期から幕末にかけて三春小野寺氏(三春藩主秋田氏(福島県三春町)の家臣)の中に源姓を称する小野寺氏がいた。
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