甲府代官所の成立と運営とは? わかりやすく解説

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甲府代官所の成立と運営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:30 UTC 版)

甲府代官所」の記事における「甲府代官所の成立と運営」の解説

甲斐国では天正10年1582年)の武田氏滅亡後徳川氏豊臣大名支配期を経て徳川氏が再領した甲府近世初頭甲府城築城され甲斐統治政治的拠点となり、武田蔵前衆の系譜を引く甲州代官による甲府町方在方支配展開された。 甲府藩時代経て享保9年1724年)に甲斐一国幕府直轄領化されると、甲府町方老中配下甲府勤番支配在方勘定奉行配下三分代官支配甲府代官所市川代官所石和代官所)となり、甲斐国は再び代官支配となる。また、甲府町域においては上飯田代官所甲府市二丁目)も設置されている。 甲府代官所享保9年4月12日山梨郡巨摩郡10万石あまりを支配所とする奥野俊勝(忠兵衛)が任じられる。『国志』に拠れば当初東光寺帰命院(甲府市東光寺)を仮陣屋として発足し、翌享保10年には現在地移転する慶応4年1868年)に廃止されるまで29名の代官在任しているほか、兼任した代官もいる。支配高は変遷しているが、山梨・巨摩両郡のほか御三卿の上地分が含まれる甲府代官所江戸から36里に位置し属僚構成一般百姓町人から採用され甲府詰・江戸詰の手付・手代それぞれ平均9~10名強で20名弱の属僚配属されており、石和代官所比較して多く属僚配属されていることが指摘されている。属僚元締統括し公事方支配勘定格、加判普請役格などの担当があり事務処理行っていた。 歴代代官のうち、7年上の在任者は3割以上存在しているが、半数3年以下の在任期間で、交代比較激しいことが指摘されている。また、甲府代官には甲斐他国代官所からの転任多く新規に登用され甲府代官見られない。後歴は他代官所への転任が多い。 天保7年1836年)には郡内地方から発し甲斐一国規模一揆となった天保騒動発生する天保騒動当時甲府代官井上左衛門で、手付手代15人を有していた。一揆勢は同年8月22日石和宿で打ちこわし行い甲府城下へ迫り、翌23日井上城下東の山梨郡板垣守備していたが、一揆勢が甲府城蔵米襲撃する風聞聞き甲府城守備したその後井上一揆勢の追撃行っている。 慶応4年1868年)、甲府代官中山誠一郎新政府郡から留任命じられ町奉行兼帯するが、同年8月には甲府代官所支配地は府中県となり、県知事赤松孫太郎任命され甲府陣屋府中県役所となる。同年11月には府中県市川県石和県甲斐府として統合され甲府代官支配終焉する。

※この「甲府代官所の成立と運営」の解説は、「甲府代官所」の解説の一部です。
「甲府代官所の成立と運営」を含む「甲府代官所」の記事については、「甲府代官所」の概要を参照ください。

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