甲府代官所の成立と運営
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「甲府代官所」の記事における「甲府代官所の成立と運営」の解説
甲斐国では天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、徳川氏、豊臣系大名支配期を経て徳川氏が再領した。甲府は近世初頭に甲府城が築城され甲斐統治の政治的拠点となり、武田蔵前衆の系譜を引く甲州系代官による甲府町方・在方支配が展開された。 甲府藩時代を経て、享保9年(1724年)に甲斐一国が幕府直轄領化されると、甲府町方は老中配下の甲府勤番支配、在方は勘定奉行配下の三分代官支配(甲府代官所・市川代官所・石和代官所)となり、甲斐国は再び代官支配となる。また、甲府町域においては上飯田代官所(甲府市宝二丁目)も設置されている。 甲府代官所は享保9年4月12日、山梨郡・巨摩郡10万石あまりを支配所とする奥野俊勝(忠兵衛)が任じられる。『国志』に拠れば、当初は東光寺村の帰命院(甲府市東光寺)を仮陣屋として発足し、翌享保10年には現在地に移転する。慶応4年(1868年)に廃止されるまで29名の代官が在任しているほか、兼任した代官もいる。支配高は変遷しているが、山梨・巨摩両郡のほか御三卿領の上地分が含まれる。 甲府代官所は江戸から36里に位置し、属僚構成は一般百姓や町人から採用された甲府詰・江戸詰の手付・手代がそれぞれ平均9~10名強で20名弱の属僚が配属されており、石和代官所と比較して多くの属僚が配属されていることが指摘されている。属僚は元締が統括し、公事方、支配勘定格、加判、普請役格などの担当があり事務処理を行っていた。 歴代代官のうち、7年以上の在任者は3割以上存在しているが、半数は3年以下の在任期間で、交代は比較的激しいことが指摘されている。また、甲府代官には甲斐・他国の代官所からの転任が多く、新規に登用された甲府代官は見られない。後歴は他代官所への転任が多い。 天保7年(1836年)には郡内地方から発し甲斐一国規模の一揆となった天保騒動が発生する。天保騒動当時の甲府代官は井上十左衛門で、手付・手代15人を有していた。一揆勢は同年8月22日に石和宿で打ちこわしを行い甲府城下へ迫り、翌23日に井上は城下東の山梨郡板垣村を守備していたが、一揆勢が甲府城の蔵米を襲撃する風聞を聞き、甲府城を守備した。その後、井上は一揆勢の追撃を行っている。 慶応4年(1868年)、甲府代官中山誠一郎は新政府郡から留任を命じられ町奉行を兼帯するが、同年8月には甲府代官所の支配地は府中県となり、県知事赤松孫太郎が任命され甲府陣屋は府中県役所となる。同年11月には府中県・市川県・石和県が甲斐府として統合され、甲府代官支配は終焉する。
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