生活と任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 13:50 UTC 版)
屯田兵は家族を連れて入地し、入地前にあらかじめ用意された家「兵屋」と、未開拓の土地を割り当てられた。兵屋は一戸建てで村ごとに定まった規格で作られた。板壁の柾屋根(薄く割った板で葺いた屋根)の木造建築で、広さは畳敷きの部屋が2部屋、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、流し前は板の間あるいは土間におかれた。決して贅沢な間取りではないが、当時の一般庶民の住宅よりは良かったという。もっとも、高温多湿の気候に向いた高床式の日本建築ゆえ、冬季には寒さで非常な苦痛を強いられた。さらに、1901年(明治34年)頃の深川村(現在の深川市)の兵屋では、7, 8月に、室内で、50~60匹のハマダラカ(マラリア原虫を媒介する蚊)を 容易に捕獲できた。つまり、夜間、多数のハマダラカが侵入するような兵屋であった。兵村は形式においては一般の村と並ぶものではないが、集団で入って一つの規律に服したので、実際には村の中の独立した村として機能した。兵村には、週番所(1886年(明治18年)に中隊本部と改称)、練兵場、射的場が付属した。兵村は他に広大な共有地も持っていた。 屯田兵の生活規則は厳しかった。起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告を要した。軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援に携わった。また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ねた。平時は徒歩憲兵に編制されるものと規定されていた(屯田兵例則)。
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