生存説の源流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:03 UTC 版)
処刑直後から芳子の生存説が流れたのは、処刑から遺体公開までに以下の不審点があったためとされる。 漢奸の処刑は通常なら公開で行われるが、芳子は早朝に非公開で行われた。 執行後に公開された遺体は、銃弾が頭部を貫通、顔面を激しく損傷しており、容貌の正確な判別は困難だった。 処刑数日前に面談したAP通信のジャーナリストによると、芳子の髪型は短髪だったが、処刑後の写真に写っている遺体の髪は肩ほどまでの長さがあった。 処刑直後に中国の新聞各紙が報じたところによると、監獄に芳子と同年代で、重病で余命いくばくもない女性がおり、その母親が監獄関係者から、娘を身代わりに差し出すことを持ちかけられ、母親は金の延べ棒10本で娘を身代わりにすることを承諾した。しかし、実際には4本しか受け取ることができなかったため、遺族がマスコミに告発したという。国民党政府はこの報道をデマだと否定する声明を発表したが、国共内戦に敗れた国民党が台湾に逃れる過程でうやむやになった。 生存説を重視したGHQは、各地に調査員を派遣して関係者に聞き取りをするなどの調査を行ったが結論は出ず、国共内戦で調査は打ち切られた。GHQの調査報告書はアメリカ国立公文書館に保管されている。 実妹愛新覚羅顕琦は、自伝『清朝の王女に生れて』で処刑直後の写真を見たが、芳子本人に間違いないと主張。替え玉報道が出たことについては、処刑現場にはアメリカ人記者のみが入ることを許され、中国人記者が閉め出されたため、腹いせに替え玉説を書いたという見方を示している。
※この「生存説の源流」の解説は、「川島芳子」の解説の一部です。
「生存説の源流」を含む「川島芳子」の記事については、「川島芳子」の概要を参照ください。
- 生存説の源流のページへのリンク