生い立ち、高須藩主尾張藩主時代とは? わかりやすく解説

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生い立ち、高須藩主・尾張藩主時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:45 UTC 版)

徳川茂徳」の記事における「生い立ち、高須藩主・尾張藩主時代」の解説

天保2年1831年)、高須藩10代藩主松平義建の五男として誕生幼名は鎮三郎、のち父・義建より偏諱受けて建重(たつしげ、初名)と名乗る長兄・四兄は夭折次兄の慶恕は尾張徳川家を、三兄の武成浜田松平家継いだため、この4人の兄に代わって、嘉永2年1849年8月16日高須藩世子となる。同年11月1日13代将軍・徳川家定御目見する。嘉永3年1850年10月16日、父の隠居により高須藩11藩主就任し、義比(よしちか)を名乗る安政5年1858年7月5日安政の大獄により、兄・慶恕(のちの慶勝)の隠居謹慎伴って尾張藩主就任14代将軍に就任した徳川家茂より偏諱授与受けて茂徳(もちなが)を名乗る就任時の経緯から、藩内の支持附家老竹腰正富佐幕派中心となった高須藩主は代わって長男の義端が継承した万延元年1860年5月18日、義端が早世すると、慶勝の子養子とし、偏諱与えて徳成名乗らせる(のちの義宜)。これよりの前の3月には大老井伊直弼桜田門外の変暗殺されており、やがて慶勝の謹慎解けると藩内では慶勝派が台頭し、そのため、高須藩主へ復帰する意向漏らしている。結局文久3年1863年9月13日隠居し、義宜に藩主譲った同年には名古屋城保存されていた日本刀一期一振孝明天皇献上する隠居後玄同げんどう)と号した

※この「生い立ち、高須藩主・尾張藩主時代」の解説は、「徳川茂徳」の解説の一部です。
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