狭間派と労対派の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 00:56 UTC 版)
「社青同解放派」の記事における「狭間派と労対派の分裂」の解説
1980年9月15日 かねてから党内闘争が継続されていたが、ついにこの日三里塚において狭間に与するグループが滝口に与するグループを武装襲撃。これによって、解放派・革労協の組織的分裂が決定的となる。この後も狭間派は後の解放派全協に結集する活動家に対して武装襲撃を繰り返し、拉致・監禁という事態も発生し、負傷者まで出した。 1981年6月頃までに永井、狭間、けん(いわゆる「NHK」)らの狭間派(学生の半分と労働者の一部)と、滝口、高見ら他称「労対派」(後の革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会、通称解放派全協)(学生の半分と労働者の多数)に分裂。分裂を機に解放派社青同は事実上機能を停止する。 分裂の過程において、狭間派にも労対派にも与しないでそのまま解放派から離脱するメンバーも多数出現した。元々、解放派が狭間派のような過激な武装闘争を主張する極左的集団から、労対指導部よりもさらに右で、社会主義協会、さらには社会党に近い主張をする社民サンディカリスト的な集団をも含んだ統一戦線であったために、中原書記長暗殺以後の軍事化路線への傾斜及び内部糾弾闘争の党内派閥の政治的引き回しに嫌気がさしてそのまま脱落したものが後を絶たなかったのである。 1981年 現代社を追われた滝口らの革労協総務委員会反主流派グループ(思想的には彼らが本流なのは皮肉だが)と狭間ら学生委員会の武闘派らのスターリズム的なやり方に異を唱えた活動家らは、81年に機関紙「プロレタリア革命(後に連帯に改題)」を発行し狭間らを「宗派グループ」と規定して対立を強めた。分裂直後に75年創造社襲撃メンバーや東水労組合員などの労働者活動家及び神奈川大学の学生活動家(通称:4.20グループ)らが狭間派らの襲撃を受け負傷者を出すが、労対派は狭間派のような「個人テロル」という手段を用いた反撃はしなかった(集会などでの小競り合いはあった)。滝口らのグループは正式な公然拠点を連帯社とし、革労協再建を全国の社青同メンバーらに訴えるが現在では革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会を名乗り、初期解放派の思想を体現した組織の建設を行っている。 1999年 滝口弘人死去。
※この「狭間派と労対派の分裂」の解説は、「社青同解放派」の解説の一部です。
「狭間派と労対派の分裂」を含む「社青同解放派」の記事については、「社青同解放派」の概要を参照ください。
- 狭間派と労対派の分裂のページへのリンク