無人島脱出への準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 08:55 UTC 版)
長平の漂着から3年後の天明8年(1788年)1月29日に大坂北堀江の備前屋亀次郎船の11人が鳥島に漂着、さらに2年後の寛政2年(1790年)1月末頃に日向国志布志の中山屋三右衛門船の6人が漂着した。この時点で鳥島の無人島生活者は長平を含めて18名となった。{{要出典範囲|鍋釜・大工道具も揃った。彼らは長平と大坂船・日向船の船頭の3名をリーダー格として共同生活を送り、食料確保の他、住居や道の整備、ため池の工事などを組織的に行った。18名のうち、1789年から1793年の間に4名が死亡した。漂着から数年が過ぎても島の近傍に一隻の船影も見られないことから、長平らは、船を作って鳥島を出ることを1792年頃に決意した。鍛冶や船大工の経験者がおり、志布志船から回収した工具やかつての漂流者が残した船釘、自作のふいごで古い船釘や錨を溶かして製造した大工道具を造船に用いた。船の素材には流木を、帆には衣類を用いた。造船中の船が波にさらわれることを防ぐために小高い丘の上で作業を行っていたため、そこから海岸までの経路の障害物となっていた複数の岩をノミなどで削って幅5メートル弱の道を造り、島の北東部の海岸から長さ約9メートルの船を海に降ろした。この時点で、造船を決意してから5年を経過していた。 長平らは、のちの漂着者の便宜を図って、自らの遭難の経緯と造船について記した木碑、生活道具、ふいご、火打石、船の模型などを洞穴の中に納めて標識を立てた。
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