為替相場の交錯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 08:53 UTC 版)
1948年1月26日に外為相場を1ドル119フランから214フランに切り下げた。ここで、フランスフランとCFAフランそれぞれの対ドル相場が事実上乖離した。要は、セーファー通貨圏から合衆国へ輸出するとき、直接送るより本国を通した方が多くのフランスフランを手に出来た。翌年8月8日、セーファーがドルとの直接交換を停止した。そして12月にSOFFO が設立された。 大戦の戦費がフランス銀行に直接引き受けられていたので、赤字財政・借換債発行・大インフレという庶民にとる苦境が続いた。しかし、なにゆえかフランスの対外債務は急速に返済されていった。西ドイツの核武装需要が起こってから、国債は銀行シ団をつくらなくても銀証・郵便を窓口として一般投資家に消化されるようになった。 1960年、フランが1/100 へデノミネーションされた。フランはブレトン・ウッズ協定で数回切り下げられていた。一方、セーファーフランが本国通貨に対する平価を1994年まで維持し続けた。 1964年10月末、累進利付短期国債の発行を停止した。1965年1月、シャルル・ド・ゴール政権下で保有ドルを換金すると発表。 1967年1月、政府が市中銀行に国債を強制保有させる制度を設けた。これは後に預金準備制度へ交代した。 1968年3月、ストックホルムで金プール7カ国中央銀行総裁会議に参加し、金の二重価格制を決定。翌年3月に金価格高騰。
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