為信の独立と立藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:45 UTC 版)
「津軽と南部」も参照 初代藩主となる津軽為信は、もとは南部氏の被官であり、戦国末期に独立化を進め、天正18年(1590年)3月、浪岡城を囲み城代楢山帯刀を三戸に敗走させた。この際、南部信直は為信討伐を九戸政実に命じるが病気と称して出馬せず、久慈政則、櫛引清長、七戸家国らも抑えたため、津軽への出兵を断念することとなり、為信の独立と津軽・外浜の統一は達成される。為信は、同天正18年7月の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して大名の地位を公認され、さらに、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後は津軽氏が江戸時代を通じて津軽と外ヶ浜を治めた。 弘前藩の領地と石高は、当初陸奥国津軽領4万5,000石と関ヶ原参陣の功によって加増された上野国新田郡大舘領(現在の群馬県太田市尾島地区など)2,000石の計4万7,000石。元禄2年(1689年)に黒石津軽家の分家が絶え、分知していた1,000石を召し上げられて4万6,000石となる。この際領内に生じた飛び地の天領を解消するため、元禄11年(1698年)に幕府との間で領地を交換し、大舘領を返上して陸奥国伊達郡秋山村(現在の福島県伊達郡川俣町内)を取得した。
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