漬物桶に塩ふれと母は産んだか
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季 語 |
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冬 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
この句は、須磨寺で寺男として働いていた時期の句である。放哉は満洲から帰国してからのち妻の馨と別れ孤独な流浪生活に入った。一燈園から始まり小豆島での終焉までの2年と5ヵ月の間、一貫して自由律俳句を作り続けながらも、その句は大きく変化しながら最後の瞬間に向かって流れていくのだった。 帰国後から小豆島に辿りつくまでの間に作られた作品群は、佳句少なからずといいながら、放哉でなければという世界には至っていないと私は思っている。そして、この句は放哉の俗物的な弱さばかりがめだつ句でもある。帝大出との自負を捨てられずに生きていた日々の、放哉の鬱屈が吐き出されているのだ。佳句ではあるが、俗な句である。当時、漬物樽に塩を振っていた男は無数にいただろう。この句には、帝大を出たエリートの自分がこんなことをしているのだ、ということを友人知人に知らせたい、驚かせたい、なんということだと怒らせたいという、そんな自己愛がプンプンと匂っている。しかしなお、この句が放哉にとって重要な句と認めるのは、小豆島での作品群へと向かって詩心を結晶化させていった放哉の出発点が、ここにあると思うからである。 自分が人からどう見られているかという思いに強く影響されていた彼の主観的作句傾向が、小豆島での最後のときに、「春の山のうしろから烟が出だした」という透明な主観へ変容していた。その彼の道程の全てが放哉の詩なのだと気づいたそのときに、この句の本当の哀しさが見えてくるのだった。 |
評 者 |
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備 考 |
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