滑空機の日本記録
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1940年(昭和15年)1月19日、美津濃グライダー製作所尼崎工場所属吉川精一一級滑空士は、美津濃301型ソアラーで9時間57分30秒の滑空機滞空日本新記録、絶対高度2,810m、獲得高度2,320mの日本新記録達成を皮切りに第二次世界大戦前の記録ラッシュが続き、1941年(昭和16年)1月26日、美津濃グライダー製作所所属、常国隆二級滑空士による10時間33分30秒の滑空機滞空日本新記録並びに、未公認ながら3,600m絶対高度滑空機日本新記録(美津濃301型)、更に前述の記録達成の2時間後、大阪飛行少年団教官、金光漢二級滑空士(免許返納中)により、搭乗機(アカシヤ式巻雲1型)で、11時間40分の滑空機滞空日本新記録更新と続いた。 河辺の記録は、第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)2月27日に小田勇特級滑空士(1942年(昭和17年)免許)に28時間08分の滑空機滞空日本新記録により更新されるまで12年間日本の公認滑空機滞空日本新記録を保持した。 近年においては、滑空機の滞空時間更新は機体の性能向上、原則滑空機の夜間飛行禁止などでスポーツとしての滑空競技は、滑空士の生命の危険を伴う体力の限界に挑む滞空競技から、三角点飛行や距離飛行、目的地飛行などとなり小田勇滑空士の記録を以て新たな挑戦は行われていない。 河辺忠夫一級滑空士、二等航空士は記録達成時満20歳で、1920年(大正9年)4月1日生誕の満20歳10ヶ月あまりでの記録であった。
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