源家の従者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/26 07:06 UTC 版)
父の盛長は源頼朝の流人時代からの側近であり、幕府草創に功のあった宿老であった。頼朝死後に跡を継いだ2代将軍・源頼家と景盛は不仲であったと見られ、頼家の代となって半年後の正治元年(1199年)7月から8月にかけて、頼家の命令を受けた中野能成や和田朝盛、比企宗員、小笠原長経らによって、留守中に愛妾を奪われ誅殺されようとした所を、頼朝未亡人・政子に救われるという事件が『吾妻鏡』の景盛の記事初見に見られる。鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』にこの事件が特筆されている背景には、頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる。 建仁3年(1203年)9月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年7月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の11月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている。
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