海軍大学校・五十鈴航海長
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2年間の呉鎮守府副官を経て海軍大学校甲種課程(第34期)に学ぶ。同期生には学生長の大井篤、豊田隈雄、海兵52期の高松宮、猪口力平などがおり、寺本武治、宇垣纏、阿部弘毅らの指導を受けた。戦後に実松は海大における海上交通保護軽視の実例を示している。海兵、海大とも同期の堤正之は近所に住まい、登下校をともにした仲であったが、二・二六事件後に自決した。卒業後に第一潜水戦隊旗艦であった軽巡洋艦「五十鈴」の航海長に補される。実松は4年半にわたり陸上配置にあり、初期には失敗を犯すこともあったが、艦長山口多聞のもとで旗艦航海長を務め、日中戦争において中南支の沿岸封鎖に従事した。実松の航海長時代の「五十鈴」には臣籍降下した皇族出身の司令官と少尉が乗艦していたが、この少尉の成績は芳しくなく、司令官は実松に対し善処を要望した。実松は山口に相談したが、山口は要望を拒み、そのうえで山口と実松は少尉に特別指導を行った。この元皇族少尉はのちに根拠地隊参謀として戦死している。
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