海上保安庁時代
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1948年(昭和23年)1月1日に復員庁が廃庁となり掃海業務は運輸省に移管され、桑栄丸は栄昌丸とともに運輸省に移管された。同年5月1日、海上保安庁が開設され、掃海業務も同庁に移管された。両船の所属も海上保安庁に移管されることとなり、昭和23年11月15日、呉掃海部所属となった。栄昌丸はMS-31、桑栄丸はMS-32の番号が与えられた。船首に船名と番号を標記し、さらに船橋前面には注意喚起のため「掃海船」と表記していた。1949年(昭和24年)11月29日、栄昌丸が試航船任務を解除され、ただ1隻残った桑栄丸は引き続き全国各地の航路啓開任務に従事した。1950年(昭和25年)3月、昭和天皇が四国へ行幸された際、帰路の3月31日、御召船「山水丸」に乗船された天皇は呉、下関掃海部の掃海船隊を非公式ながら親閲された。この日、海上はかなりの時化であったが、桑栄丸は先頭船として31隻の掃海船を率いて反航する山水丸に乗船された天皇の親閲を受けた。昭和25年6月1日、海上保安庁に航路啓開本部が設置され、横須賀、呉、大阪など全国9ヵ所に航路啓開部が置かれた。桑栄丸は同日付で呉航路啓開部所属となった。7月から日本海側の航路、港湾の試航任務に従事したが、8月の台風により、秋田県船川港で座礁してしまった。修理を経て1951年(昭和26年)4月、極東米海軍の要請で朝鮮水域の試航任務に派遣され、釜山、仁川など各地で試航任務に従事した。
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