浮洲岩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 02:29 UTC 版)
藤戸海峡には浮洲岩(うきすいわ)といわれた岩があった。藤戸石(ふじといし)ともいわれ、潮の干満に関係なく波間にいつも岩頭を出していて浮島のようであった、あるいは浮巣のようであったから命名されたいわれる。現在の粒江の東寄り、藤戸町藤戸との境界付近にあたる。『東備郡村志』によれば、名石として珍重されて建武年間(1334~1338)に当時の将軍足利義満が取上げ、金閣寺へ移したとされる。その後は細川典厩家の庭に置かれていたのだが、細川藤賢の代となってから織田信長が錦に包み足利義昭の為に築城した二条城へ移し、後に豊臣秀吉が聚楽第へ、さらに江戸後期には山城醍醐寺三宝院の庭園に移った。現在も同所の庭園に残っている。 『寒川人道筆記』に「かくれなき藤戸石を。上京細川殿屋敷より室町畠山様御屋敷へ信長公(三宝殿)御引なさるゝ」とあり、また『京都往来』には「此庭藤戸石有」と記されている。 浮洲岩跡地には、鞭木新田干拓時に消失するのを防ぐため正保2年(1645)に熊沢藩山の書により石標を建てたとされる。なお石碑の台座はその時代よりも古いため、元々は、藤戸合戦で佐々木盛綱に殺害された住民の供養碑として存在していたともいわれる。 浮洲岩周辺は、その後もそのままの状態で保全され、小さな沢沼地となっていた。児島湾が淡水化する以前は、海に住む動植物が繁茂していた。現在はウキヤガラが自生している。
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