法制定へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:08 UTC 版)
「アフリカ系アメリカ人公民権運動」の記事における「法制定へ」の解説
ケネディは1963年11月にダラスで凶弾に倒れ(ケネディ大統領暗殺事件)、ジョンソン副大統領がその後を継ぐこととなった。11月に大統領に就任したジョンソン大統領は、南部のテキサス州を地盤に持つ「保守派」として知られたものの、大統領就任以前から人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示し公民権法の制定に積極的であった。 実際にジョンソンは大統領に就任すると、これまでの上院議員としての長い政治生活、特に院内総務として培われて来た議会への影響力を最大限に働かせ、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(「人種差別主義」という意味での)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めた。 ジョンソン大統領による精力的な働きかけの結果、世論の高まりもあり議会も全面的に公民権法の制定に向け動き、1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は、ついに終わりを告げることになった。 またジョンソン大統領は11月に行われた大統領選挙で50州のうち44州とコロンビア特別区を制し、4,312万7,041票を獲得して一般投票が初めてアメリカ全体に広げられた1824年以降最大の得票率61.1%を獲得し、538人の大統領選挙人の内486人の支持を得るなど圧勝した。
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