河内守任官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 01:05 UTC 版)
河内源氏3代目棟梁・源義家の3男として香呂峰の館で誕生。異母兄に「悪対馬守」といわれた源義親、同母弟に「荒加賀入道」といわれた源義国がいる。河内守に任官した、河内源氏の最後の棟梁であり、彼以降の棟梁は河内守には就任していない。義忠は祖父・頼義に似ていたと父に評された。若年より帯刀長・河内守・検非違使などを歴任したが、その背景には父の力があったものと思われる。朝廷も義家を抑圧しつつも恐れ、懐柔策として義忠を河内守などの要職に就けたともいわれる[誰?]。 近年まで、義忠は兄弟の義親・義国の2人が謀反や乱暴などの理由で朝廷から討伐されたり流罪に処されていた為、義家の死後に急遽家督を継いだとされてきた。しかし近年の研究の結果、義忠が義家の後継者に選ばれた時期は今までの説より早いという説が有力になってきている。義忠が上国の河内守であるのに、今まで家督に最も近いのに謀反を起こしたとされていた義親は下国の対馬守でしかなく、義国は後年、加賀介になるが、それでも河内守に比較すると遥かに下位の官職である。このことからして、義家が早い時期から義忠を河内守として河内源氏の本拠地たる河内の長官になる運動をしていたと考えると、義忠後継が早い時期に決まっていたものとされる[要出典]。 なお、後世に編纂された『尊卑分脈』などの諸系図には義忠が河内守であったことや従五位下であったことが記されているが、同時代に書かれた公卿や貴族たちの日記ではそのことは確認できない。義忠の官位について確認できるのは、康和5年(1103年)12月26日に帯刀長(帯刀先生)に在任していたこと、嘉承2年(1107年)10月22日の坊官除目において帯刀から左衛門尉に任じられた(位階は正六位上)こと、天仁2年(1109年)2月に殺害されたときに検非違使であったことである。
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