河内国金剛寺へとは? わかりやすく解説

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河内国金剛寺へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「河内国金剛寺へ」の解説

正平9年/文和3年1354年3日22日南朝は、観応の擾乱末期捕縛していた北朝光厳法皇光明法皇崇光上皇三人幽閉先を河内国大阪府)の金剛寺へと移した同じく正平9年/文和3年1354年10月28日には南朝元首である後村上天皇自身もまた金剛寺入り新たな行宮(仮の首都)に定めたため、四人の帝が金剛寺住居とすることになった。『瑜伽伝灯鈔によれば文観は再び後村上帝から請われ護持僧祈祷によって天皇守護する僧)に重任されたという。したがって文観もまたこの時に金剛寺へ居を移した考えられる。このとき文観数え77歳金剛寺真言宗ではあるが、真言律宗とも関わり深く、その点で文観とは縁が浅くない寺院である。たとえば、鎌倉時代末期延慶3年1310年以前に、真言律宗開祖興正菩薩叡尊弟子である忍実が金剛寺学頭金剛寺寺務統括する僧職)を務めている。 文観金剛寺移った時の学頭は、膨大な数の事相書(真言密教実践書)を書写したことで名高い禅恵(弘安5年1278年) - 正平19年/貞治3年1364年))という学僧だった。禅恵はそれまで文観とは関わり深くなかったとみられるが、文観心酔して弟子入りし文観から聖教伝授された。ただ、文観の伝や弟子の一覧記録した瑜伽伝灯鈔』に文観弟子として禅恵の名が見られないのが不審であるが、内田啓一は、禅恵が弟子入りしたのは文観最晩年数年だったため、期間が短すぎて正式な伝法灌頂受けられなかった可能性もあるのではないか、と推測した

※この「河内国金剛寺へ」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「河内国金剛寺へ」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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