沖田畷の戦い以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/08 07:09 UTC 版)
天正12年(1584年)、島津氏・有馬氏連合軍との沖田畷の戦いにおいて父・隆信が討ち取られると、出陣した家信も敗走し、武雄の後藤山城(塚崎城)を出て、要害の地である住吉城(武雄市山内町)に居を移した。なお『フロイス日本史』によれば、隆信の死後、家信は再度コエリュにキリスト教への入信を打診している。しかし、父・隆信や龍造寺家臣の戦死や兄弟からの家信への悪辣な仕打ちなどから、気が狂って正常な判断ができなくなり、牢に入れられて監視を付される身となったと記されている。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の島津征伐に際し参陣し、肥後の湯浦まで攻め入ったという。天正18年(1590年)、龍造寺政家の隠居の際、家信に対しても豊臣秀吉から知行目録が下され、杵島郡のうち長島方3,379.2石、杵島郡塚崎庄9,364.8石、下松浦郡のうち有田3,659.2石、小城郡のうち東郷330.7石の合計19,703.9石が家信の知行とされた。 その後、家信は豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加する。まず、天正20年/文禄元年(1592年)の文禄の役では加藤清正に従って、徳原城を守り、朝鮮の二王子(臨海君、順和君)を捕らえるべく兀良哈(中国東北部)まで攻め入り、その後、文禄3年(1594年)正月に帰国している。また、慶長の役では、慶長2年(1597年)再び朝鮮に渡り、翌慶長3年(1598年)の正月、蔚山籠城中の加藤清正を救出するという功績を立て、清正から大刀一振りと大砲30挺を贈られている。その後、家信は病となって帰国したためその代理として嫡子・茂綱が朝鮮に出陣している。 慶長6年(1601年)、佐賀藩鍋島氏の他、龍造寺四家(諫早、武雄、多久、須古)にも江戸への人質の差し出しが求められる江戸証人の制度が導入され、翌年、家信は三男・鍋島茂延を江戸に送っている。 元和8年(1622年)、死去。
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