沖田畷の戦いまでとは? わかりやすく解説

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沖田畷の戦いまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/08 07:09 UTC 版)

後藤家信」の記事における「沖田畷の戦いまで」の解説

永禄6年1563年)、龍造寺隆信の子として誕生天正5年1577年)、後藤貴明実子晴明(後の龍造寺家均)を龍造寺氏養子に出す代わりに隆信の子家信貴明の娘・市と結婚して婿養子となった。元々後藤氏龍造寺氏とは時期に応じて和議敵対繰り返す関係にあったが、隆信勢力拡大により家信養子迎えざるを得なくなっていた。なお、明治維新に至るまでこの龍造寺血脈は続く事になる。 以後龍造寺氏合戦参加天正7年1579年)、隆信筑後国肥後国攻めでは、家信三池古賀城を包囲し陥落させ、相良米良宇土麻生といった肥後衆と戦いでは首800挙げたという。天正8年1580年)、龍造寺政家従い柳川蒲池鎮漣攻め加わった天正9年1581年)には兄・龍造寺政家江上家種と共に肥後攻め入り隈府城主・赤星統家降伏させ、御船城主・甲斐親直隈本城主・城親賢らについては龍造寺隆信服属する旨の起請文提出したため本領安堵している。天正10年1582年)には田尻鑑種龍造寺隆信背いたため、政家大将家信鍋島直茂副将務めこれを攻めたまた、ルイス・フロイスの『日本史』によると、同年10月家信イエズス会長崎管区長ガスパール・コエリョ使者出し領地寄進自身入信条件にしたイエズス会交誼締結申し出たが、実父隆信反対に遭い断念したとされている。

※この「沖田畷の戦いまで」の解説は、「後藤家信」の解説の一部です。
「沖田畷の戦いまで」を含む「後藤家信」の記事については、「後藤家信」の概要を参照ください。

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